三重のお散歩〜伊賀上野城を散策
いつもご訪問いただきありがとうございます😊
お天気がぐずぐずと降ったり止んだり
暖かかったり寒かったり
どちらに照準を合わせていいやら
健康管理も難しいですね😅
中国で大流行の新型コロナウィルス肺炎が
とても心配です
まあ、私の住んでいる地域は田舎ですから
人の出入りも少なく
万が一日本で流行しだしたとしても
この辺までは来ないかなとたかを括ってますが😅
福岡、大阪、東京などの大都会は心配ですね😆
伊賀上野城
名阪国道を走っていると
上野のあたりで山の上にお城がチラッと見えます
三重と大阪を往復するようになってうん十年
そこにお城があるのが当たり前に思っていました
しかし、実は上野城には一回しか行ったことがなく
しかもお城が目的ではなく忍者屋敷だったという😭
主人ともお城や街並みは知らないよね、ということで
伊賀上野城とその城下町を散策してきました😆
衝撃の事実
で、いつものごとく前日に下調べをしていましたら衝撃の事実が発覚しました
天正13年(1585)に筒井定次が平楽寺・薬師寺のあった台地に近世城郭としての伊賀上野城を築きました。菊岡如幻の『伊水温故(いすいうんご)』によれば、城は高丘の頂上を本丸とし、東寄りに三層の天守閣を建て、城下町は古くから開けた北側(現在の小田町)を中心としました。
慶長13年(1608)8月、徳川家康は、伊予の国(現在の愛媛県)宇和島城主であった藤堂高虎に、伊賀の国10万石・伊勢の内10万石、伊予の内2万石、合わせて22万石を与え国替えさせました。高虎が家康の信任が厚く、築城の名手でもあり、大坂・豊臣方との決戦に備えるための築城でした。筒井定次の城が大坂を守る形をとっていたのに対し、高虎は、大坂に対峙するための城として築きました。慶長16年(1611)正月、本丸を西に拡張し、高さ約30メートルの高石垣をめぐらして南を大手としました。
五層の天守閣は、建設中の慶長17年(1612)9月2日、当地を襲った大暴風で倒壊しましたが、外郭には、10棟の櫓(二重櫓二棟、一重櫓八棟)と長さ21間(約40m)という巨大な渡櫓(多聞)をのせた東西の両大手門や御殿などが建設されました。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣、その翌年の夏の陣で豊臣方が敗れました。その後、幕府は城普請を禁じたため、伊賀上野城では天守閣が再建されないまま伊賀国の城として認められ、城代家老が藩政をあずかりました。幕末まで国替えなく、この地を収めました。伊賀上野城HPより
早い話(読むの大変ですもんね)
築城しかけていたんだけど
完成間際に大嵐が吹いて天守閣は倒壊し
その後天守閣がない状態で上野は繁栄したと書いてあります
なんかびっくりじゃないですか
戦国時代には別のお城が建っていたとはいえ
負けたわけではないのに天守閣がないなんて😆
しかも嵐で倒壊って…
ということで
実際に行ってみました
散策開始!
上野公園のすぐ南側にとても古い校舎が残っている
上野西小学校があります
写真は撮れませんでした😭
起伏はあるけど石畳ではなく砂利道なので
たくさんの人がジョギングしてました
茅葺の門がありました
なかなか雰囲気のある建物、俳聖殿
意外と新しい…
忍者屋敷
表には忍者が
コスプレイヤーが写真を撮ってました
ぴょんぴょん、ご機嫌に登っていきます
石畳の階段がかなり不規則で歩きにくかったです
この石垣の上は米蔵や塩曽蔵です
日本一、二の高さって…
確かに高かったです😆
けっこう怖かった😣
ちなみに一位は大阪城の高石垣です
規則的に並んだ四角い石
用途がわかりませんでした
ここに何かあったのかな?
裏側から見た天守閣
先程の米蔵などがある石垣の上で
あぁ、くうちゃん、危ないからじっとして😱
左が天守閣に続く階段
右は武家屋敷に続く階段です
苔むしていい感じに年代を感じる階段
表門に通じる坂です
上野西小学校の裏手には
低い塀が続いてました
塀の上を忍者が走っていく姿が想像できますね😆
茶色の壁の建物が明治五年に建てられた校舎だそうです
人も少なくそれなりの起伏で
楽しく見て回れました
遺構はあまり残っておらず説明も少なく感じました
でもなかなかいい雰囲気で
わんこたちは楽しげに散歩してました
さて、今から南側に広がる城下町を散策します
続きは次回に…